遺伝子は35億年の夢を見る−バクテリアからヒトの進化まで−

     はじめに--自分自身を知りたい

 私たちはだれでも「自分」とはなにかを知りたいと思っているのではないだろうか。文字どおりの自分という具体的な肉体を考えれば、それは誕生してやがて死んでゆく存在である。自分という意識が死によって消滅することへの恐れは、どんな人にでもあるだろう。私は六才のころから死への恐怖が始まった。この恐怖感から、自ずと「生命」とはなにか、さらにはそれが生ずる場として最大の存在である「宇宙」とはなにか、という疑問が湧いてくる。 この地球上のすべての生物がそれぞれの生命を持って暮らしているのだから、生命の問題は自分にとどまらず、生きとし生けるものすべてに及んでゆく。 シオカラトンボがすいすい飛んでゆくのを見るときのすがすがしさ、桜の花が散ってゆくのを見るときのもの悲しさ。 こんな気持ちを人間である私たちが感じるのは、自分の感情をトンボや花に投影しているだけではない。 やはりそこには自分と共通の生命を持つものに対する共感があるのではなかろうか。
 人間を含めたすべての生物は、実際につながっているのである。このつながりを直接与えるのが、三五億年以上にわたる生物の「進化」だ。それは宇宙の始まりと言われている一五〇億年以上前のビッグバン以来、現在まで続いている宇宙の歴史の一部分である。夜空の星を見上げて、ひとつひとつの星がその誕生から長大な年月がたっていることを思うとき、自分の一生のあまりの短さに対して、私はしばしばとてつもない閉塞感を感じる。 しかし私たち自身が、生物進化の長い歴史の賜物なのだ。さらには、生命を持つ私たちだけでなく、道ばたの石にもまたそれなりの歴史がある。すべては歴史なのだ。
 とはいえ、やはり生命現象は宇宙のなかでも突出して歴史的な存在である。この歴史性は、とりもなおさず生物進化が与えたものであり、その根底には遺伝子の変化がある。私たち人間を含む大部分の生物において、遺伝子の物質的本体はDNA(デオキシリボ核酸)である。DNAというモノのなかに遺伝子という情報が蓄えられ、それが突然変異によって変化してゆくことこそが、生物進化の中心に位置しているのだ。 このようなモノの集まりが生命を形作っているということは、現代生物学の核心である。
 ところが長いあいだ、生命には無生命とは異なる原理が働いていると考えられていた。この考え方を「生気論」と呼ぶ。むしろ生気論的な考え方のほうが、いまだに一般には受け入れられているように思われる。生物学の研究者のなかにも、以前には生気論を強く主張する人がいた。一〇〇年ほど前に生物の発生を研究したハンス・ドリーシュは、ウニが受精卵から細胞分裂を繰り返して発生してゆく過程があまりにも見事に制御されているので、生命には無生命とは異なる「エンテレキー」が存在していると主張した。 これは現代生物学ではまったく否定されている考え方だが、このような発想が生まれるのも不思議ではない。 発生のメカニズムは現在でもなおその全貌はわかっておらず、世界中の発生生物学研究者が、どのような遺伝子の制御によって発生が行なわれているのかを追求している。 発生はそれほど神秘的な生命現象なのである。
 ある意味で、生物学の歴史は「生気論」に対する「機械論」の勝利の記録とみなすことができる。「機械論」とは、生物と無生物には同一の物理化学的原理が適用される、という主張である。たとえば心臓を考えてみよう。この臓器の名称からもわかるように、大昔は心臓に「こころ」が宿ると考えられていたのだろう。しかし一七世紀にウィリアム・ハーヴィが、心臓は血液循環のポンプにすぎないと喝破してから、心臓の持つ神秘性は消え失せた。とはいえ、好きな異性に会ったときに心臓がどきどきするのは、こころの働きが心臓の動きに影響を与えた結果である。 その意味では、心臓はこころの中心ではないものの、その一部を形作っていると言えるのかもしれない。  二〇世紀に入って、生命現象は分子レベルで研究されるようになった。その結果、機械論の立場がますます強くなっている。とはいえ、いまだに生気論の残党ががんばっている領域がある。それは「心身二元論」だ。本丸であるわれわれ人間自身の「こころ」(精神や意識と呼んでもいいだろう)が「からだ」とは異なった原理の上にあると主張する点で、姿を変えてはいるがこれまでの生気論の延長とみなすことができる。 この考え方は、一般的には当たり前のことだと思われているのではないだろうか。 しかし機械論を押し進めてゆけば、当然「心身一元論」に帰結するのである。これは、われわれの「こころ」は「からだ」があってはじめて存在するものであり、なにか特別のものではないとする考え方であり、人間中心主義をある意味で否定している。 一方で、心身一元論はこの宇宙全体と自分を直接つないでくれる考え方である。 なぜなら、素粒子や原子や分子から私たちの意識にいたるまで、同じ原理でずっとつながっているというのだから。そのつながりを与えてくれる物質的存在の中心が実は「遺伝子」なのだ。 したがって自分自身を知るためには、遺伝子の性質を知ることがきわめて重要である。また、遺伝子の持つ歴史性は、機械論を乗り越える鍵を持っているのである。本書はこの立場から「自分」を、特に人間である自分を知ろうとする試みのひとつである。
 自分が存在していることそれ自体、そしてそのことを自分自身が気づいているということは、驚くべきことであり、神秘である。この本を書いている私も、今読んでいるあなたも、遅かれ早かれ死んでしまう存在だ。そう考えると、自己がほろんでしまう前に、徒労と言われようが、少しでもこの自分自身のことを知りたいと思いたくなるのではないだろうか。この本がその助けになれば幸いである。